
城端曳山祭
5月4日(宵祭)・5日(本祭)
Jōhana Hikiyama Festival
- Since 1724 -

城端曳山祭について
About the Jōhana Hikiyama Festival
城端曳山祭は、城端神明宮の春季大祭として毎年五月四日・五日に執り行われ、三百年前に招福除災と町内繁栄を祈願して始まった歴史ある祭礼である。享保二年(1717)に神輿がつくられ、獅子舞や傘鉾による行列も始まり、享保四年(1719)には曳山が創建された。享保九年(1724)には曳山が神輿渡御に供奉し、この祭礼行列を今日まで伝えている。平成十四年(2002)に重要無形民俗文化財、平成二十八年(2016)にはユネスコ無形文化遺産に登録された。
五月四日の宵祭では、城端神明宮を出御した神様が御旅所へ遷御される。これは藩政期に城端のみへ特例として許された格式高い神事であり、六ヶ町の若連中による庵唄の奉納、さらに山宿には御神像が飾られ、曳山・庵屋台も公開される。
五月五日の本祭では、春日宮・八幡宮・神明宮の三基の神輿を先導して、獅子舞、剱鉾、各町の傘鉾や四神旗などが行列し、さらに庵屋台と曳山が神輿渡御に供奉して巡行する。獅子舞と剱鉾が悪霊を祓い鎮め、傘鉾が神霊を天上より招くという古式ゆかしい神迎え行列の形式を今日まで守り伝えている。曳山の車輪が軋む音が特徴的であることから、親しみを込めて「ギュウ山」とも呼ばれている。
曳山・庵屋台の原作は、城端蒔絵の七代 小原治五右衛門をはじめ、荒木和助、木屋仙人、小平次、左右衛門ら地元の工人によって制作され、漆工・大工・彫刻などの技を結集し、精緻な意匠と卓越した技が生み出された。これらの技と美意識は、現代に至るまで大切に受け継がれている。
歴代の小原治五右衛門は曳山・庵屋台などの制作や保存修復に深く関わってきた。幼少より曳山祭を愛してきた十六代 小原治五右衛門もまた、曳山修復に全身全霊を注ぎ、笛方として庵唄の演奏に携わり、平成三十年(2018)には城端曳山祭を統括する庵連合会会長を務めた。
The Jōhana Hikiyama Festival is the spring grand festival of Johana Shinmei Shrine, held annually on May 4 and 5. With a history of over three hundred years, it began as a prayer for protection from misfortune and for the prosperity of the town. In 1717, a mikoshi was created, and processions featuring shishimai lion dances and kasaboko began. In 1719, the hikiyama floats were constructed, and by 1724 they came to accompany the mikoshi procession, a form that has been preserved to the present day. The festival was designated an Important Intangible Folk Cultural Property in 2002 and inscribed on UNESCO’s Representative List of the Intangible Cultural Heritage of Humanity in 2016.
On the evening of May 4, the enshrined deities are ceremonially transferred from Johana Shinmei Shrine to the Otabisho. This is a highly formal ritual that was granted as a special privilege exclusively to Johana during the feudal period. During this time, youth groups from the six districts dedicate Iori songs, sacred images are displayed in the yamayado lodgings, and the hikiyama and iori-yatai are opened to the public.
On May 5, the main festival day, the procession proceeds in the order of shishimai lion dancers, kenboko spear bearers, kasaboko, the Four Divine Flags, and the mikoshi. The hikiyama and iori-yatai follow in attendance upon the mikoshi as it moves through the town. The shishimai and kenboko purify and pacify malevolent spirits, while the kasaboko invite the deities from the heavens. This ancient and formal style of welcoming the gods has been carefully preserved to the present day. The distinctive squeaking of the float wheels has earned them the affectionate nickname “Gyu-yama.”
The original forms of the hikiyama and iori-yatai were developed by local artisans, including OHARA Jigoemon VII of the Jōhana maki-e tradition, together with Wasuke Araki, Sennin Kiya, Koheiji, and Saemon. By integrating lacquerwork, carpentry, and sculpture, they achieved refined designs and exceptional craftsmanship. These techniques and aesthetic sensibilities have been carefully handed down to the present day.
Successive generations of the OHARA Jigoemon family have been deeply involved in the creation, preservation, and restoration of the hikiyama floats and iori-yatai. The present OHARA Jigoemon XVI, who has cherished the festival since childhood, has likewise devoted himself to the restoration of the hikiyama. He also performs Iori songs as a flutist, and in 2018 served as Chairman of the Iori Federation, the organization overseeing the Johana Hikiyama Festival.

城端曳山祭の特色
城端曳山祭は賑やかに騒ぐ祭礼とは異なり、風流な江戸文化の趣を今日に伝える、城端を代表する祭りである。
城端には氏子九ヶ町のうち六基の曳山があり、曳山・庵屋台・傘鉾の三つが一組となっている点に大きな特色がある。日本各地に山・鉾・屋台の祭礼は見られるが、その特色は地域ごとに異なり、県内の多くの曳山では山上に御神像を祀り、花笠の鉾を立て、地山(山の中)において囃子を奏する形式が一般的であるが、城端では、曳山・庵屋台・傘鉾がそれぞれ独立して巡行する点が、全国的にも稀有な特徴として知られている。
明治五年(1872)までは曳山の巡行順は毎年固定されていたが、太陽暦の採用に伴う祭礼日の変更とともに、その順序も改められた。現在に至るまで、古式を尊びつつも時代に応じた形で行列が受け継がれている。
また、曳山が動くときに車輪からは「ギュウ」と響く重々しい軋り音が生じる。車輪の中心部である欅造りの「轂(こしき)」に樫材の心棒を通す際、檜の薄板を曲げて挟み込む構造とし、この板は「鳴り板」と呼ばれる。両面に油を施すなど各町が工夫を凝らし、それぞれに異なる音色を響かせる。この軋り音は、神の巡行を告げる警蹕の意味を持つともされるが、城端の人々は親しみを込めて曳山を「ギュウ山」と呼び、その響きとともに祭の到来を感じてきたのである。
城端神明宮春季大祭行列之圖 十五代 小原治五右衛門 謹画
昭和54年(1979)

七代 小原治五右衛門 と 荒木和助
七代 小原治五右衛門(1729 - 1805)は、城端蒔絵「中興の祖」と仰がれ、多くの門弟を育て城端塗の最盛期を築き、曳山や庵屋台をはじめ数多くの作品を後世に残した。
また、謡曲や囲碁にも巧者であり、余技として雛人形も制作し、さらに和歌・俳諧にも長じ文藻豊かな教養人でもあった。安永の曳山騒動あっては身を挺して尽力した豪気な一面は多くの人に感動を与え、寛政十年(1798)に古希を記念して自画像を描き、辞世の句「蓮の実やこゝを去ること遠からず」は、水月寺境内に「蓮子冢」として現存している。
一方、荒木和助(1734 - 1806)は曳山の御神像や操り人形をはじめとする人形彫刻に妙技を振るい、さらに陶芸や絵画においても優れた作品を残した名工である。。
この両者の関係は、「膠漆之交」と称される。「膠」は「にかわ」、「漆」は「うるし」を意味し、いずれも固まると極めて強固となることから、離れることのない深い友情を象徴する言葉である。両者はまさにそのような結びつきのもとに力を合わせ、曳山や庵屋台の制作に力を注いだ。
そして、彼らの手によって生み出された曳山や庵屋台には、実際に「膠」と「漆」という素材が用いられている。人と人との結びつきと、作品をつくる素材とが重なり合い、そこに城端の美と精神が宿っている。

神輿 / Mikoshi
春日宮神輿・八幡宮神輿・神明宮神輿
三基の神輿は、それぞれ春日宮神輿・八幡宮神輿・神明宮神輿と称され、獅子舞や氏子各町の鉾、さらに曳山・庵屋台が供奉して渡御行列を行う。
享保二年(1717)に春日宮神輿ができ、享和元年(1801)には八幡宮神輿と神明宮神輿がつくられた。三基はいずれも神紋である右三ッ巴を掲げ、金箔を施した金地に、黒漆を下地として仕上げられている。鳥居、御幣、高欄、さらに神明宮神輿の擔木には朱漆が用いられ、真鍮金具を配することで、荘厳な威容を形づくっている。
意匠においてもそれぞれに特色が見られ、春日宮神輿は大鳥・小鳥、珠簾、瓔珞などを鹿の意匠で表し、神明宮神輿は鶏、八幡宮神輿は鳩をもって区別される。構造は神明宮神輿と八幡宮神輿が八角形で大きさもほぼ同一であるのに対し、春日宮神輿は六角形で胴体はやや低く設えられているが、台座によって全体の高さは揃えられている。
なお、塗師については、神明宮神輿と春日宮神輿は八代 小原治五右衛門(一白)、八幡宮神輿は不明である。

傘鉾 / Kasaboko
六基の曳山と庵屋台は、三基の神輿に随行して町内を巡行する。華やかな曳山や庵屋台に目が向けられがちであるが、城端の祭礼も傘鉾が始まりである。現在においても傘鉾は曳山や庵屋台とは別に、神輿を先導して町を巡り、各町の依り代としての役割を担っている。
傘鉾は東上町・西上町・東下町・西下町・大工町・出丸町・新町・野下町の八本があり、それぞれが傘上に独自の飾りをつけた風流傘鉾である。
各町の曳山の名称は、この傘鉾の粧物に由来する。新町の傘鉾には「手箱に鼓と桜の枝」の飾りが据えられ、天明元年(1781)作の手箱は、七代 小原治五右衛門(稀雄)による蒔絵が施されている。また、野下町の傘鉾は「太鼓にラッパと月琴」の飾りをのせ、中国的風情を漂わせている。

新町「剱鉾」 / Shinmachi “ Kenboko ”
獅子舞と剣鉾は、神輿渡御の行列を先導する共通の役割をもっている。なかでも剱鉾は、悪魔を除き邪気を祓う神具であるが、新町の剣鉾は、二輪の車を備えた台座に立てられ、「太神宮」の旗を結び付けている。厳かな信仰とともに、城端の祭礼文化の一端を象徴するものである。
平成三十年(2018)には、十六代 小原治五右衛門によって轅および地台の修復が施され、伝統の姿を今に伝えている。

曳山 / Hikiyama floats
城端の曳山の原作は、享保年間(1716 - 1725)に建造されたと伝わる。創建期の曳山は、現在の豪華絢爛な姿とは異なり、簡素な構造を有するものであった。城端は絹織物の産地として栄え、絹の生産・販売や五箇山との交易によって町人の経済力を蓄えてきた。その豊かな財力を背景として、曳山をより華やかに改修・増補する機運が高まり、段階的な改作が重ねられていったのである。また、曳山を構成する主要部分は、いずれも城端の工人たちの手によって生み出された点に大きな特色がある。大工の小平次・佐右衛門、人形師「木屋五郎右衛門(通称:木屋仙人)」(1623 - ????)、さらに御神像や操り人形、後屏彫刻(見返し)に妙技を振るった「荒木和助」(1734 - 1806)など、各分野の名工がその制作に携わってきた。
そして、曳山の制作・監修、意匠考案、構造設計、装飾漆工に至るまで中心的役割を担ったのが、城端蒔絵の「七代 小原治五右衛門(稀雄)」(1729 - 1805)である。「八代 小原治五右衛門(一白)」(1764 - 1813)、「九代 小原治五右衛門(雄蔵)」(1787 - 1859)、「十代 小原治五右衛門」(1805 - 1882)に至るまで、御神像・曳山・庵屋台の制作に深く携わり、その美意識と技術を曳山に注ぎ込んできた。
安永年間には、城端の町並みに合わせた曳山の改作が行われ、以後、幕末頃からは井波彫刻や金工、西陣織物など多様な技術が取り入れられ、装飾は一段と絢爛化し、豪壮華麗を競うに至った。その後も、歴代の治五右衛門をはじめとする地元工人たちによって修復と継承が重ねられ、城端の曳山は現在に至るまで、その美の技と心を受け継ぎ続けている。

庵屋台 / Iori-Yatai
文化・文政期には、城端絹が江戸や京都へと盛んに移出され、当時の化政文化の影響を受けて庵屋台が創出された。
庵屋台は、その上部を「庵」、水引幕や格子戸を備えた下部を「重」と称し、江戸の新吉原や京都祇園の一力茶屋、島原の角屋などを写した精巧な意匠によって構成されている。
その制作にあたっては、先人たちが実際に現地へ赴き、建物の姿を写し取り図面を起こしたと伝えられる。曳山および庵屋台の下図は、現在も小原家に伝存し、当時の精緻な設計の一端を今に伝えている。
庵屋台の内部では、各町の若連中が江戸端唄や上方の流れを汲む「庵唄」を奏でる。そこには、遠隔地の文化を受容しながらも、城端の風土の中で育まれた独自の芸能の姿が息づいている。

庵唄 / Iori-Uta
庵唄は、江戸情緒豊かな端唄の楽曲であり、人々がその場にいながら料亭に遊ぶ趣を味わうことができるようにとする、先人の粋な遊び心から生まれたものと伝えられる。
庵屋台の巡行に際して奏される「まわりあい」「先囃子」、休息時に折々に奏でられる「休み囃子」、さらに御旅所へ神輿を迎えに向かう際の「本囃子」は、いずれも城端独特のものである。三味線や笛の巧者たちの工夫によってつくられたその音律は、きわめて典雅であり、若連中によって披露される庵唄には、町ごとの個性と地域性が色濃く表れている点も高く評価されている。
また、庵唄所望の折には親戚や知人が招かれ、その音色を共に味わう習わしが今日まで受け継がれている。

宵祭 - 5月4日
宵祭には、剣鉾・傘鉾・庵屋台・曳山が各町内に飾り、御神像は山宿に安置され、一般に公開される。
山宿(山番)を務める家は、数年前よりその準備に取りかかる。家屋の改修や内部の改装、庭の造り替えに加え、調度品の新調を進め、御神像をお迎えするにあたり空間を整えていく。また、畳を新調し、御神酒や赤飯を供え、屏風を立てて生花を飾ることも、古来からの慣習である。その夜、主人は下着を新調し、御神像の前にて床に就く。山町の人々にとって、山宿の務めを果たすことは大きな名誉とされてきた。
獅子は、人々の暮らしを脅かす悪霊を鎮める威力のあるものとする信仰と結びつき、祭礼においては神輿渡御の露払いを務める。獅子舞は神輿を御旅所へお迎えし、また神輿の還御の際には神明宮までお送りする。
神様は宵祭に城端神明宮を出御し、御旅所へと遷られる。六ヶ町の若連中は、その年の曳山の順に従って御旅所に参拝し、獅子舞をはじめ、お着儀、浦安の舞、城端賛歌、さらに祭礼の無事を祈念して庵唄が奉納され、宵の町は厳かな祈りと賑わいに包まれる。

本祭 - 5月5日
御初穂笊持 - 南町 獅子舞 - 野下町 獅子舞 - 新町 剱鉾 - 先供八ヶ町 傘鉾 - 吹流し-子供神輿 - 金銀鉾旗 - 春日宮神輿 - 四神旗 - 八幡宮神輿 - 眞榊 - 神明宮神輿 - 宮司 - 敬神会 - 供奉六ヶ町、庵屋台・曳山が揃い、行列をなして巡行が始まる。
行列は城端別院善徳寺前を出立し、まず水月公園へと向かう。渡御行列は御神楽料献納の家々を巡り、それぞれの家において除災招福の祈祷が行われる。庵唄所望宿の前では庵唄が披露され、神を祀り、囃し立てることで邪気を払い、町内の安寧と繁栄が祈願される。同時に人々は祭礼に深く没入し、その喜びを分かち合ってきた。
祭の終盤を飾る「帰り山」は、城端曳山祭の大きな見どころの一つである。一年の希望と感謝を込め、提灯を灯した曳山が順に反転し、引き返しを行う。当番町である一番山の町衆は、他町の曳山・庵屋台を一列に並んで見送り、互いに感謝の意を交わす。先囃子の音が重なり合い、車輪の軋む音が響く中、曳山と庵屋台はそれぞれの町内へと帰っていく。
こうして城端の新たな一年が始まる。

水月公園と城端人
水月寺は曹洞宗に属する寺院であるが、菅原道真公を祀ることから「水月庵天満宮」と称されている。
境内に隣接する水月公園には、曳山文化にゆかりの深い人物を顕彰する石碑が点在する。名工・荒木和助の旧宅跡を示す「唐津屋和助宅跡」、俳人であり画家でもあった堀川雪郷の筆塚、さらに七代 小原治五右衛門林好(稀雄)の辞世の句を刻んだ「蓮子冢」などがあり、曳山の発展に寄与した先人たちの足跡を今に伝えている。
また、水月寺は城端の絹織物業にとっての守護的存在として、古くから篤い信仰を集めてきた。加賀藩主前田家が曹洞宗を信仰していたことから、同宗の寺院がこの地に建立され、城端の人々は自らの暮らす町と先祖を弔う場として、水月公園との関係を今日まで大切に守り続けている。

「安永5年(1776)、小原家に正月はなかった。」
私が小学生の頃、祖父である十四代 小原治五右衛門が、江戸中期の安永年間(1772 - 1781)に、越中国で曳山を巡り、大騒動があったことを話してくれました。
安永2年(1773)、新湊 放生津の曳山を高岡の職人へ修理を依頼したことが曳山騒動の始まりです。放生津の曳山を見た高岡の曳山総代が、これは高岡の御車山に似せた大八車であると抗議し、これを差し押さえました。
高岡の御車山は、 天正16年(1588) 豊臣秀吉が御陽正天皇と正親町上皇を京都の聚楽第(じゅらくだい)にお迎えするときに使用した車を、加賀藩初代藩主である前田利家が秀吉より拝領し、二代藩主 前田利長公が慶長14年(1609)、高岡城を築く際に高岡町民に与えた前田利長公拝領の由緒ある車で、高岡だけに許されたものであるから他の町では同じ車を持つことは許されないことであるとして、寺社奉行に差し止めを申し出たのです。
今石動の曳山、そして城端の曳山に対しても取り止めるよう紙面で申し入れがありました。
(※八尾町の曳山は当時内車様式のため該当せず)
城端ではこの申し入れに猛抗議。 放生津と今石動も同様の抗議を行ないました。その後、騒動は更に膨らみ、高岡奉行所はこれを鎮めることが出来ず、魚津の盗賊改方役所にて詮議することになりました。
安永4年(1775)12月14日、魚津の寺西弾正殿の召喚によって城端からは七代 小原治五右衛門、谷屋吉兵衛、小坂屋理助の三人の組合頭と大工の小平次と佐右衛門、荒木和助、大桑屋豊右衛門(老衰のため息子の甚四郎が代理)の7名が出頭を命ぜられました。
そこで、今石動、放生津、城端の祭礼の始まりや、曳山を制作した責任者、騒動を起こした指導者も吟味し、厳重に取り調べ尋問することになりました。
その取り調べは、拷問によって一人が責め殺されたほどであったと言います。
詮議の結果、高岡の御車山は格別のものであり、他の町ではそれと同じものは勿論、似ているだけでも一切認めないと言う申し渡しがありました。
七代 小原治五右衛門は、「城端は大八車はもちろん、それに似寄った車も作っていない。私が責任者として詮議を受ける。」と主張。
安永5年(1776)1月24日、 谷屋吉兵衛、小坂屋理助、荒木和助、大工 小平次、大桑屋甚四郎は釈放されましたが、佐右衛門は傷寒を患い、帰郷するも死去。
七代 小原治五右衛門は、全責任を申し出て入牢することになりました。
放生津、今石動、城端の山車を魚津へ運んで見分けすることになった際に、城端からは津沢まで人足で運び、津沢からは舟で伏木へ送り、伏木から更に舟で魚津まで運搬したそうです。
その後、城端の曳山は返還を認められましたが、魚津から城端へは莫大な労力と費用がかかるので、魚津で車輪を捨てたと「荒木留帳」の記事の中には記されています。また、言い伝えでは竹田山の車輪を魚津の曳山に用いられたと言う説もあります。
しかし、昭和50年(1975)5月13日、西上町の古い車輪を調査したところ、安永5年に取り調べたものであるとの書付が発見されました。これにより、竹田山の旧車輪は無事に城端へ帰ってきていたことがわかりました。
結果、高岡の主張が通り、放生津は大八車から板車に変更、今石動は曳山祭の中止(現在は再開)、城端は曳山祭の歴史が古いので祭りは許可されましたが、放生津同様、車輪には規制がかけられました。(※明治に外車様式を解禁)
これにより、高岡 二番町の若者頭であった津幡屋与四兵衛は、御車山の由緒と格式を守った安永の義人として「弥眞進大人命(まごころいやすすめうしのみこと)」と崇められ、 毎年4月3日には関野神社で与四兵衛祭が行われています。
また生家跡には石碑が建てられ、5月1日の御車山祭では全ての山車がその前で止まり詣でます。
城端では七代 小原治五右衛門や荒木和助らの石碑がある水月公園で庵唄を奉納します。
安永5年(1776)6月1日、七代 小原治五右衛門は、半年間の入牢から無事放免されました。
城端を代表し、身を挺して尽力した豪気な一面は、多くの人に感動を与えました。
出丸町には今も延命地蔵があります。出頭の日、北野のかまてん坂まで一行を見送った大桑屋豊右衛門は、かまてん坂に7名の安泰無事を祈願し地蔵尊を建立しました。
雪の降りしきる12月~1月の寒い時期にもかかわらず、城端の人達は毎日地蔵尊に参詣し、延命祈願の列が続いたと言います。その後、かまてん坂の地蔵尊は三体となり、城端三地蔵と呼ばれて親しまれました。明治25年(1892)、延命地蔵は北野から現在の出丸坂へ移動しました。
また、七代 小原治五右衛門の辞世の句「蓮の実やこゝを去ること遠からず」は水月公園に「蓮子塚」として現存しており、父を敬愛した八代 小原治五右衛門(一白)が文化9年(1812)に石碑を建立して以来、代々の治五右衛門が、その感謝と祈りを捧げております。
参考文献
城端曳山史 (城端曳山史編纂委員会 編)
端唄の流れる里 - 城端曳山祭と庵唄 (金子千彰・細川健太郎 著)
加越能の曳山祭 (宇野通 著)

大工町「千枚分銅山」
Daikumachi “ Senmaibundouyama ”
大工町の曳山は「関羽と周倉像」を安置する千枚分銅山です。享保年間(1716 - 1736)につくられた原作は、明治31年(1898)の大火で焼失。明治39年に復元、再造されました。
構造は輪車の車輪 四方唐破風の屋根、平天井で、高さは6.34メートルです。他の曳山のように長年にわたる増補・改造の積み重ねでなく、一貫した設計に基づいて作られたので、形態も均整がとれています。その後、十六代 小原治五右衛門が、平成23年(2011)に天井鏡板・廻り縁、平成24年(2012)に轅、令和4年(2022)に幕板・雛台・彫刻、令和5年(2023)に勾欄、令和6年(2024)に屋根を修復しています。
見返し(後屏)は、一般に 「須佐之男命大蛇退治図”」といわれていますが、謡曲の「張良」から取材した図であるともいわれます。

西上町「竹田山」
Nishikamimachi “ Takedayama ”
西上町の曳山は「恵比須像」を安置する竹田山です。 原作は享保の初め頃で、安永年間(1772 - 1781)に七代 小原治五右衛門(稀雄)が、設計構造から装飾漆工にいたるまで作りかえました。その後、嘉永元年(1848)に九代 小原治五右衛門、十代 小原治五右衛門が上壇などを一部増補・ 改修したほかは、ほとんど手を加えず、その大部分は城端曳山の原型を保っています。平成22年(2010)に十五代 小原治五右衛門 が岩波彫刻の極彩色を修復し、十六代 小原治五右衛門が車輪と幕板を修復しています。
構造は板車の車輪、四方一文字軒、入母屋造りの屋根、 折上平天井で、高さは5.71メートルです。神座に見返し(後屏)がないのは、この曳山だけで簡素で優美な作風がうかがえます。
装飾は、水波紋様や恵比須の紋の「蔓柏 (つるかしわ)」の意匠が多く使われています。

東下町「東耀山」
Higashishimomachi “ Touyouyama ”
東下町の曳山は「大黒天像」を安置する東耀山で、福寿山とも呼ばれています。曳山の原作は享保年間(1716 - 1736)で、七代 小原治五右衛門(稀雄)の門弟である、遊部屋、大島屋などが漆工にあたり、その後の修繕・増補によって形態・構造が拡充されました。構造は輻車の車輪、前後唐破風の屋根で、高さは5.91メートルあります。その後、十六代 小原治五右衛門が、令和7年(2025)に勾欄を修復しています。
天井に格天井の手法を用いているのはこの曳山だけで、格縁に16弁の菊紋金具が打ってあります。装飾は大黒天にちなんで、宝珠・宝くずしなどの文様が多く見られます。
見返し(後屏)の 「陶淵明・酴醿漉釃図(とびろくしのず)の高肉レリーフは、二代目 荒木和助の作です。

出丸町「唐子山」
Demarumachi “ Karakoyama ”
出丸町の曳山は「布袋像」を安置する唐子山です。 曳山の原作は享保5年(1720) で、高砂山と称され「尉と姥」を安置しましたが、宝暦12年(1762)布袋山に改められ、さらに唐子山と称されるようになったと伝えられています。構造は板車の車輪、前後唐破風の屋根、平天井で、高さは6.27メートルです。彫刻・金具などの装飾は唐子遊び・宝くずしなどの文様が多く見られます。その後、十六代 小原治五右衛門が、平成22年(2010)に車輪を、令和8年(2026)に小屋組を修復しています。
見返し(後屏)の「司馬温公瓶割の図(しばおんこうかめわりのず)」は一位材白木彫りの高肉レリーフで、明治45年(1812) に作られました。

西下町「諌鼓山」
Nishishimomachi “ Kankoyama ”
西下町の曳山は「堯王像」を安置する諫鼓山です。原作は享保年間(1716 - 1736)で、年代を経て随時修繕、増補され、嘉永年間から明治・大正時代へと改修され、今日の曳山が形成されました。
構造は板車の車輪、三方唐破風の屋根、平天井で、高さは6.18メートルです。 屋根幅を縮めるとき、他の曳山では軒を折り上げますが、 明治29年(1896)に大工 中田清蔵によって屋根が改作され、この曳山は正常な形を保ちながら軒をせり上げるという、特異な装置が仕組まれています。その後、十六代 小原治五右衛門が、平成25年(2013)に屋根・懸魚・鏡板、令和3年(2021)に勾欄を修復しています。
見返し(後屏)の “竹に鶏”の浮彫にも見られるように、 装飾には「鶏」の文様のデザインが使われています。

東上町「鶴舞山」
Higashikamimachi “ Tsurumaiyama ”
東上町の曳山は「寿老像」を安置する鶴舞山です。享保年間(1716 - 1736)に作られた曳山は、安永年間(1772 - 1781)に七代 小原治五右衛門によって改作され、その後も代々の手が加えられました。 明治40年(1907)に、城端で一番大きな輻車(やぐるま)を新調、鶴舞模様の金具を付け、塗装も施して曳山を大型に改造しました。 さらに明治45年(1912)には、屋根も豪華2重構造に改造され、 高さは6.52メートルです。その後、十六代 小原治五右衛門が、平成27年(2015)に下壇欄間彫刻、平成31年(2019)に幕板、令和2年(2020)に勾欄・柱を修復しています。
見返し(後屏)の「難阿和勢稚游 (とりあわせちごあそび)」と題する高肉彫刻は、寛政3年(1791) に初代 荒木和助が作った唯一のレリーフです。

大工町 御神像
関羽・周倉
Kanu and Syuusou
関羽は三国時代の蜀漢の武将で、劉備・張飛と義兄弟の約を結びました。容貌魁偉、美髯を有し、義勇をもって劉備を助けました。
後世、人びとは諸所に廟を建ててまつり、また財神としても信仰を集めました。周倉は勇猛な関羽の武将です。
寛政8年(1796)に荒木和助が主従二体様式の新機軸によって作成したものです。
大工町では当初、千枚分銅を模した造形を御神体として、安置していたのではないかと伝えられています。千枚分銅の名称もこれに由来したものといわれます。

西上町 御神像
恵比須
Ebisu
七福神の一つで、もとは兵庫県西ノ宮の祭神であったといわれています。 海上・漁業・商業などの守護神で、風折烏帽子をかぶり鯛を抱いた姿に描かれています。城端曳山の御神像の中では唯一の日本の神様です。
御神像は以前に七代 小原治五右衛門林好の作のものがあったが、明和8年(1771)に八尾の西町へ譲渡したと伝えられています。
現在の御神像は、寛政7年(1795)に荒木和助が作ったものです。明和8年から寛政7年までの24年間には御神像が不在であったのか、疑問とされています。

東下町 御神像
大黒天
Daikokuten
密教では自在天の化身で、仏教の守護神。戦闘神あるいは忿怒神、後に厨房神とされる。また、七福神の一。その姿は、頭布をかぶり、左肩に大きな袋を負い、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏まえています。大国主命と習合して民間信仰に浸透しました。
安永3年(1774)に荒木和助が彫造し、従来までの黒大黒天像と取り替えました。神座の両脇座に繰り人形の「ラッパを吹く人形」と「逆立ちかるわざ人形」を配しています。いずれも明和2年(1765)に初代 荒木和助によって作られたものです。令和8年(2026)に十五代 小原治五右衛門が両腕を修復しました。

東下町 御神像
布袋
Hotei
布袋は唐代の禅僧で、四明山に住み、容貌は福々しく、体躯は肥大で腹を露出し、常に布ぶくろを担って喜捨を求めて歩いたと伝えられています。世人は弥勒の化身と尊び、その円満の相は好画材として多く描かれ、七福神の一つとされています。
原作は宝暦12年(1762)の荒木和助の作ですが、弘化3年(1846)に九代 小原治五右衛門が首や手足を修復し、胴と団扇を新調。昭和60年(1985)に十四代 小原治五右衛門が胴と手足を修復しました。
脇人形として高砂山の人形の尉を「旗持唐童子」、姥を「笛吹唐童子」に改造。また「梯子渡人形」もからくりに仕立てて飾られます。

西下町 御神像
堯王
Gyouou
堯王は中国古伝説上の聖王で、舜と並んで中国の理想的帝王とされています。
諫鼓は君主に対して諫言しようとする人民に打ち鳴らさせる太鼓です。堯王は善政を施したので諫鼓を用いることがなく、鶏が太鼓に巣を作ったほどであったという。このいわれにちなんで諫鼓山と称されました。
御神像は享保元年(1716)に木屋仙人(木屋五郎右衛門)が彫造し、明和3年(1766)、荒木和助、木屋儀右衛門、木屋九平の3人によって修復され、曳山人形の中では最も古いものです。
諫鼓は天保3年(1832)に改作され、平成23年(2011)に十五代 小原治五右衛門によって復元新調されました。

東上町 御神像
寿老
Jyurou
寿老は宋代の仙人で、長頭の老人で杖をたずさえ、杖の頭に巻物をつけ、うちわを持ち、鹿をつれていたといいます。七福神の一つで長寿を授けるとされています。同じ七福神の一つで、短身、長頭の福禄寿と同体異名の神とされ、 福禄寿が鶴を従えたことから、これにちなんで鶴舞山と称したのではないかといわれています。
寿老像は安永2年(1773)、荒木和助によって作られました。昭和28年(1953)に十四代 小原治五右衛門が修復しています。
脇人形に “綾織人形” が飾られ、 カラクリで手と顔を動かして舞います。

大工町「庵屋台」
Daikumachi “ Iori-Yatai ”
左大臣・源融(河原左大臣)が、貞観年間(859 - 877)に京都加茂川の畔に数寄をこらして造った「六条河原院」を模したもので、平安貴族・在原業平が主人公の「伊勢物語」に取材しています。
他町が江戸時代の青楼を模した数寄屋造りであるのに対し、大工町は平安の王朝文化をしのばす寝殿造りであることが特徴です。
原作は明治31年(1898)の大火で焼失。 明治41年(1908)に復元、再造されました。その後、平成23年(2011)に十五代 小原治五右衛門の妻で加賀友禅作家の小原陽子が、庵屋台の水引幕を復元新調。平成29年(2017)に十六代 小原治五右衛門が重・轅・欄間・屋根を修復しています。
前後の庵を風流な橋で結び、周りに鴛鴦と杜若の造り物を配して、池畔に面した公卿屋形の趣をかもしだしています。 屋台の高さは3.06メートルです。
庵唄をうけもつのは「冠友会」です。

西上町「庵屋台」
Nishikamimachi “ Iori-Yatai ”
庵屋台は七代 小原治五右衛門が、京都祇園の一力茶屋を模したものと伝えられます。現在の庵屋台は、京都の料亭を模した数寄屋造りで、大正4年(1915)から翌年にかけて大工 竹下理三郎により新調され、昭和31年(1956)に近代城端塗の粋を集めて塗り上げられたものです。平成25年(2013)に十六代 小原治五右衛門が重と轅を修復しました。
庵唄をうけもつのは「恵友会」です。

東下町「庵屋台」
Higashishimomachi “ Iori-Yatai ”
小づくりな庵屋台で、平屋建て二棟構えの数寄屋造りです。他の屋台の腰廻りは、水引き幕で囲いめぐらされていますが、この庵屋台では格子造りの構造で、格調高い江戸情緒を漂わせています。庵の下の重には10枚の欄間彫刻が入れてあります。 平成30年(2018)に十六代 小原治五右衛門が屋根を修復しました。高さは3.02メートルです。
庵唄をうけもつのは「宝槌会」です。

出丸町「庵屋台」
Demarumachi “ Iori-Yatai ”
平屋建て、二棟構えの数寄屋造りで、明治32年(1899) に修復し、庵と水引幕の間に他の木彫刻のものと違った、簡略で風情のある寄せ造り物の欄間をはめこんでいるのが特徴で、町内有志が共同でつくったものです。令和3年(2021)に十六代 小原治五右衛門が屋根を修復しました。屋台の高さは3.20メートルです。
庵唄をうけもつのは「布袋同志会」です。

西下町「庵屋台」
Nishishimomachi “ Iori-Yatai ”
西下町には文政5年(1822)以来の庵唄稽古番の記録があり、庵屋台の起源も古いといえます。
現在の庵屋台は、明治22年(1889)に新調したもので、数寄屋造りの二階建、主屋、離れ二棟の料亭を模した庵で、設計は三代 山村十右衛門です。大正5年(1916)、重に取り入れられた、近江八景、日本三景、三保松原の欄間は、大島五雲の作。屋台の高さは3.29メートルです。
庵唄をうけもつのは 「諫鼓共和会」です。

東上町「庵屋台」
Higashikamimachi “ Iori-Yatai ”
原作は七代 小原治五右衛門の作と伝えられますが、文政8年(1825) から天保5年(1834) の間に大改修され、髹漆は九代 小原治五右衛門が行いました。
江戸の料亭を模したもので、新吉原の「大文字屋」「鶴屋」「扇屋」「玉屋」の暖簾が庵の入口にかけてあります。高さは3.45メートルです。
庵唄をうけもつのは「松声会」です。

大工町「冠友会」
Daikumachi “ Kanyuu-Kai ”
【唄方】
佐藤良介 / 松浦綾 / 西田勇貴 / 片山洋一郎
【囃子方】
笛
十六代 小原治五右衛門 / 龍田敦志 / 長田治樹 / 篠原綾靖
三味線
山下幸応 / 稲場智治 / 佐藤成政 / 井澤拓也
太鼓
高畑哲 / 橋本将志
2025.5.5 現在

庵屋台 (城端神明宮蔵)
塗師 八代 小原治五右衛門 南砺市指定文化財
文化・文政年間(1804 - 1829)に作られたもので作者は不明。以前、西上町が所有していた庵屋台で、塗師は八代 小原治五右衛門(一白)で城端塗の傑作である。黒漆の枠を組んで「重」と称し、この重組の中に囃方がはいる。重の上には庵が乗る。庵は二棟からなるものが多く、この庵も本屋と離れを渡り廊下でつなぎ、芝垣を巡らして庭を配するなど、天井の箔地絵画や高欄、重の欄間、いずれも精巧さと風流を凝らして作られた数寄屋造りの模型である。

曳山・庵屋台 下図 (小原家蔵)
七代 - 十代 小原治五右衛門
江戸時代 中期 - 後期

布袋像 素描画 (小原家蔵)
九代 小原治五右衛門 (1787 - 1859)
弘化3年(1846)

布袋像 寸法図 (小原家蔵)
九代 小原治五右衛門 (1787 - 1859)
弘化3年(1846)

十四代 小原治五右衛門 / OHARA Jigoemon XIV
(1917 - 2003)
寿老像
安永2年(1773) 荒木和助の作
昭和28年(1953) 十四代 小原治五右衛門 修復
布袋像
宝暦12年(1762) 荒木和助の作
弘化3年(1846) 九代 小原治五右衛門 改作
昭和60年(1985) 十四代 小原治五右衛門 修復

十五代 小原治五右衛門 / OHARA Jigoemon XV
(b. 1951)
西上町「竹田山」上壇彫刻
嘉永元年(1848) 彫刻 金剛寺屋理八
塗師 塗師屋治五右衛門
平成22年(2010) 十五代 小原治五右衛門 修復
西下町「諫鼓」
天保3年(1832) 改作
平成23年(2011) 十五代 小原治五右衛門 復元新調

十六代 小原治五右衛門 / OHARA Jigoemon XVI
(b. 1979)
全国山・鉾・屋台保存連合会
祭屋台等製作修理技術者 平成23年(2011) 認定
2009 - 2010 西上町「竹田山」車輪・幕板 修復
2009 - 2010 出丸町「唐子山」車輪 修復
2010 - 2011 大工町「千枚分銅山」天井鏡板・廻り縁 修復
2011 - 2012 大工町「千枚分銅山」轅 修復
2012 - 2013 西上町「庵屋台」重・轅 修復
2012 - 2013 西下町「諌鼓山」屋根・懸魚・鏡板 修復
2014 - 2015 東上町「鶴舞山」下壇欄間彫刻 修復
2016 - 2017 大工町「庵屋台」重・轅・欄間・屋根 修復
2017 - 2018 新町「剱鉾」轅・地台 修復
2017 - 2018 東下町「庵屋台」屋根 修復
2018 - 2019 東上町「鶴舞山」幕板 修復
2019 - 2020 東上町「鶴舞山」勾欄・柱 修復
2020 - 2021 西下町「諌鼓山」勾欄 修復
2020 - 2021 出丸町「庵屋台」屋根 修復
2021 - 2022 大工町「千枚分銅山」幕板・雛台・彫刻 修復
2022 - 2023 大工町「千枚分銅山」勾欄 修復
2023 - 2024 大工町「千枚分銅山」屋根 修復
2023 - 2024 新町「剱鉾」彫刻 修復
2024 - 2025 東下町「東耀山」勾欄 修復
2025 - 2026 西上町「竹田山」 斗栱・木鼻・虹梁・束・彫刻・幕板 修復
2025 - 2026 出丸町「唐子山」 小屋組 修復
2025 - 2026 東下町「東耀山」 擬宝珠 修復
他
2015 - 2016 石動・中新田町「曳山」勾欄 修復(小矢部市指定有形民俗文化財)
2018 - 2019 五箇山・田向「獅子頭」修復
2022 白漆俳諧奉納額(八代 小原治五右衛門 作) 修復(小矢部市指定有形文化財)

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